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露街公開空地

創作やコンテンツに関する覚書......にしたい

不健康

フィクション

 空が混沌を増していくように、私の声は届かなくなってしまった。
 笑えない空。笑えない空気。降り続ける窓の外の雪を、ヘラヘラと笑って眺める。けれど窓は白く濁っていて、降っているのが雪なのか酸性雨なのか、実のところわからないでいる。
 凍えている。誰が凍えているのかと思ったら私だった。気付かないのも仕方がない。なぜなら、私の声はもう誰にも届かないから。

 私は虚無の完成を待ち焦がれている。虚無は万能で、すべての代わりになるのだと聞く。
 虚無を見たことはないし、虚無に触れたこともない。けれど虚無はいずれ完成するから大人しくして待っているがよいと、佐藤さんが言っていた。だから私は待つ。いつまでも待つ。待ち続けた時間さえ、虚無は置き換えてしまえるのだから。

 本棚を漁る。本棚には執着が詰まっている。
 優越の記録、鬱屈の証左、忘れ得ぬ記憶、忘れたい記憶。そんなもの達が私を出迎えた。
 背表紙のない本を開くと、芋虫のような文字が行儀よく踊る。ページをめくると、今度はバッタのような文字がパラパラを踊っている。
 かつて交換日記と呼ばれていた気がするそれは、実際には何を交換する役割も持ち得なかった。投げつけて投げつけるだけに終始した薄汚れたノートブック。何故ここに在るのかもわからないこれは、一種の呪いかもしれなかった。
 たとえば嘉穂とは暫く会っていなかったけれど、半年前にあらゆるSNSから姿を消し、現在も消息不明である。舞は精神病で実家に帰ったらしい。佐奈は去年の冬、突然死んでしまった。いつ死んだのか、どうして死んでしまったのか、知る機会はとうとう訪れなかった。

 遠い何処かの国の戦争。私は液晶を通じてそれを知る。けれど活字にされた時点で、画像にされた時点で、それは真実からは程遠い。真実は何処にでも転がっている代物ではない。私や、私以外の大半は、虚を生きて虚に死すだけだ。真実を目にしたものは狂うとは専らの噂だ。
 恋は首輪で友情はアルミ缶。情熱は粘土で、信仰は着古したジャケット。真実たりえるのは恐怖と憎悪くらいのものだ。
 千人が死に、千人が腕を千切られ、三千人が燃やされて世界は今日も廻る。明日もまた千人が死ぬだろう。

 ドリル、あるいはチェーンソーの暴力的なメロディが部屋の中に侵入してくる。世界は造ることや壊すことに必死らしい。そこに在ること、もしくはそこに無いことが許されぬ者達。彼らが泣いても、ドリルは穴を穿つことをやめず、チェーンソーは断ち切ることをやめないのだろう。
 扉の向こうで誰かが呼んでいる。その声にはひどく悲しいものが含まれていたけれど、その声を音素に分解して意味に変換する試みは悉く失敗に終わる。
「―%どh―nてな__#るの?」
 こんなふうに。

 やがて、悲しい声は響くのを諦めて、静寂が自己主張を始める。窓の外では何かが降り続ける。私は何が降っているのか知っている気もするし、知らない気もする。どのみち、それを知る必要はない。
 首を両手で掴み力を込める。すると苦しい。神経は鳴き、肺は渇く。
 虚無の完成まであと少し。それは気持ちの良い予感だけれど、苦しいのは嫌だから今日はこれでお終い。肺の抗議は聞いてあげない。

とある夏 (2)

日記

sheeta-mm.hatenablog.jp


 遺体が自宅へ戻るや否や、葬儀屋と両親が打ち合わせを始める。式(通夜、告別式)の日程は勿論のこと、部屋や祭壇のランク(高ランクになればなるほど祭壇がでかくなる)、遺影の写真および額縁、さらに香典返しといったあらゆる事物の選定が行われた。最近の遺影は背景も衣服も合成で好きなものに変えられるものだというらしい。ハイテク。祖母は自分の写真ほとんど残していなかったが(捨ててしまった)、PCの中に埋もれていた中から、画になりそうな写真を一枚選ぶことができた。トントン拍子でシステマティックに事が決まっていく。隣の部屋には遺体が安置されている。奇妙な光景だった。

 さらに一日、何もない日があった。通夜はその翌日。告別式は翌々日である。
 その日は、世間的に見ればごく普通の一日だったが、我が家にとってはあるいみ異質な一日だった。父と母と私と弟それに、都内在住の母の姉にあたる人物が、田舎の新興団地に位置する私の実家、父と母の家に集う……おそらく十数年に一度あるかないかの機会だ。

 その日は結局、家にこもっていた。実家周辺は商業施設も公共交通も乏しい場所であるから、外へ出ようにも、行く宛が無かったのだ。昼間、両親が葬儀屋との打ち合わせ等の用事で不在の間、弟と、とりとめのない近況報告などをしていたように思う。またそれに加えて家の掃除もしていた。しばらく帰っていない実家には長いこと掃除されず埃が溜まっている箇所が数多くあったため、私はそれを見つけては掃除機やティッシュで埃を排除していた。結局、身体を動かして、出来るだけものを考えないようにしていたのだと思う。

 生々しい事実であるところの、祖母の遺体。それと直接向き合うには、私は精神が幼すぎたのだと思う。

承認

日記

「他の誰でもない自分」なんてものはどこにも居ないとも言えるし、すでに、誰しもが「他の誰でもない自分」を持っているとも言える。

 人は誰しも個人差あれど承認を欲している。 「他の誰でもない自分」が認められる、求められることを欲している。SNSにおける被「いいね」がセックスの快感と質的に同じものであるという。たとえばそれには自分が承認されているとか、求められていることを体感できるという共通点がありそうだ(まったくの想像でしかないが)。

 ただし実感といっても、求められているという事実が存在するとも限らない。「誰でもよかったのね」ということだ。フォロワーを身内で固めている場合は除くとして、フォロワー全員にとって自分というアカウントが「本当に求められている」ことなどありえないだろう。「承認を与えてくれるなら誰でもいい」と「コンテンツを提供してくれるなら誰でもいい」は鏡のような関係だ。相互に求めあい、しかし、唯一性はない。

 だからこそ、たとえ回線を通した関係でしかなくとも、本当に波長の合う数人は、本当に大事にするべきなのかもしれない。