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露街公開空地

創作やコンテンツに関する覚書......にしたい

承認

日記

「他の誰でもない自分」なんてものはどこにも居ないとも言えるし、すでに、誰しもが「他の誰でもない自分」を持っているとも言える。

 人は誰しも個人差あれど承認を欲している。 「他の誰でもない自分」が認められる、求められることを欲している。SNSにおける被「いいね」がセックスの快感と質的に同じものであるという。たとえばそれには自分が承認されているとか、求められていることを体感できるという共通点がありそうだ(まったくの想像でしかないが)。

 ただし実感といっても、求められているという事実が存在するとも限らない。「誰でもよかったのね」ということだ。フォロワーを身内で固めている場合は除くとして、フォロワー全員にとって自分というアカウントが「本当に求められている」ことなどありえないだろう。「承認を与えてくれるなら誰でもいい」と「コンテンツを提供してくれるなら誰でもいい」は鏡のような関係だ。相互に求めあい、しかし、唯一性はない。

 だからこそ、たとえ回線を通した関係でしかなくとも、本当に波長の合う数人は、本当に大事にするべきなのかもしれない。

奇妙な夏 (1)

日記

 祖母の危篤の連絡を受けたのが先々週のこと。私はスーパーマーケットで買い物をしていた。そこへ母から電文が届いたのだ。

 実を言えば、予測できる事態ではあった。その更に一週間前、私は実家近くの総合病院にいた。具体的症例について話を聞いたわけではないが、ここ一年ほどの祖母の体調を見ていれば、先が長くないことは容易に察せられた。入院した時点で、近い未来にそれが発生することは定められたようなものだった。買い物を中断し、あたふたと荷物をまとめて駅へ向かい、列車に乗り込んだ。

 現住所から実家までは新幹線と在来線で約三時間。どうにも落ち着かず、携帯電話を弄っていた。新幹線が三島駅に着いた頃「亡くなった」との電文。間に合わなかったのだ。妙に冷静だった。非日常的な事態に思考が追いついていなかったのかもしれない。

 逝去の報を受け取った一時間後にようやく実家最寄り駅に到着する。自宅へ戻った時には誰もいなかった。暇――というのも変な表現だがそういう他ない――になってしまった私は部屋の掃除などをして、今にして思えばそれは、繰り返しの日常の中に逃げこもうとしていたのかもしれない。

 母の付き添いで、遺体が家へ運び込まれたのはその一時間ほど後。遺体は間違いなく祖母の姿形をしていたが、それが動くことはなかった。人の姿をしているものが全く、微動だにしないことは奇妙なものだった。優しいお顔で眠っていますねなんてよく言うものだけれど、私にはその表情を形容することができなかった。幾らフィクションで死や死体に親しんでいても、現実の死に対しての想像力は驚くほど貧困だ。

 祖母は、最後の数時間を昏睡状態のまま過ごした。最後まで意識が戻ることはなかったという。眠るような死というものだろうか。延命処置は行われなかったが、おそらく本人の同意の上だろう。祖母は、自分の命が長くないことを知っていたように思える。最後の一年のうちに、古い写真や工作物をほとんど捨ててしまっていた。

 あの世へ持っていけるものはない。身一つで向かうしかない。だからだろうか、現世に残すものなどないと考えたのだろうか。だとすれば哀しい気もするけれど、自分がいざ同じ立場になったら、やはりそんなふうに考えるのかもしれない。

(続く)

暗い空を仰ぎ見て

フィクション

 生きるって、なんだろうね。
 僕の肉体はたしかに存在していて、たしかにそこには一個の生命が宿っているんだ。あるいは、たんに僕がそう認識しているだけであって、この肉体も本当は存在しないなのかもしれない。本当って、どこまでが本当でどこからが本当じゃないんだろうね。まあ、どうでもいいけど。
 僕は僕という肉体を維持するために毎日何かを食べ、七時間以上の睡眠をとる。毎日、毎日それを繰り返す。ろくにものを食べなくても、ろくに寝なくても生きていける人間も世の中には少数ながら存在するらしいけど、僕の身体では、そんな芸当は到底無理。食事を抜けば腹の虫が鳴り続けるし、徹夜をすれば次の日はマトモに動くことすらできない。身体って不自由だ。
 でも考えてみれば、不自由なのは身体どころじゃなく、命そのものなんじゃないか。僕が生まれたのは誰のためでもないし、まして僕が望んだものでもない。そのくせ、生まれてしまった命には、予め死がプログラムされている。いやだなあ、死ぬのは。そりゃあ、死にたくなることはよくあるけれど、そういうときに望んでいるのは物理的な肉体が生から死へと遷移することなんかじゃなく「死にたいという感情の死」だったりする。それを勘違いして歩道橋から飛び降りたり、ビルから飛び降りたりして本当に死んでしまう人もいる。生きている意味が無いとか言って。生きることを望みながら死へ向かう、そんな矛盾した行動を取ってしまえるのが人間だ。もったいないよね、なんか。そう思うだろう?
「よくわからない」
 彼女は僕の演説をたった一言で評した。ウザがられているだけなんてことはないよ、多分。
「きっと彼らも本能的には生きることを望んでいて、今は偶然上手くいっていないだけなんだよ。口先でああだこうだ言うやつもいるかもしれないけど、誰も生きることそのものを否定できやしない。だから、できることなら生きてみてほしかった。僕にそんなこと言う資格はないけれど、誰かが言ってたじゃん。『死ぬまで生きろ』って」
「生きている意味が感じられなくても?」
「うん」
「本当にそう思っているの?」
 手痛いなあ。
「わからない。自分の本心なんて、自分でもよくわからないものだよ」
「またそんなこと言ってはぐらかす」
「無意味なら無意味なりに、楽しいと思えることを見つけて生きればいいんだよ」
 僕の存在も、君の存在も、政治家も実業家も大統領も、空も地球もきっと宇宙も、本来的に意味なんてありはしないんだ。意味が無いものは怖いし、寂しい。だから人間はどんなものにも意味を求めたがる。意味をこじつける。人間はみんな頭がおかしいのだ。
「生きていけそう?」
「うん」
 彼女が笑う。その笑顔を見ているだけで、生きている実感がわいてくる。
「よかった」
 良いことなのかな、これは。まあいいや。そういうことにしておこう。
 差し伸べられる手。その手を握ってしまったら、きっと僕らは同じままでいられない。正直怖い。
 でも、そうすることで初めて、僕らは本物になる。だから、
「ありがとう」
 僕は、虚空と手をつないだ。