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露街公開空地

創作やコンテンツに関する覚書......にしたい

狂気を発現する可能性は誰しもが持っている

 タイトル通りのことを思っている。狂気というものは社会から隔絶された場所に現れるものではない。一人ひとりの心のうちに眠っているものだ。

 コンビニで立ち読みした本に、怒りの源泉は寂しさというようなことが書いてあった。確かにそうであると思う。今現在は平穏な状態にある私でも、なんらかの壁にぶつかっているときは、鬱憤をぶつける何かを見出そうとしてしまうだろう。

 私がいつか本当に人を傷つけてしまうのではないかと怖くなることがある。そのとき、偶然ナイフを持っていたら、あるいは偶然鉄パイプを持っていたら、と。そんな状況はめったにあるものではないし、仮にあったとして元来小心者の自分にはできっこないと考えるのが普通である。が、突発的な衝動の前に、自分がどうなってしまうかはわからない。

 正常と異常に境界があるとして、正常の側から見える向こう側は意外と近くにあるものだ。殺人犯とて、大半は、狂人として生まれ落ちたわけではないだけ。そこにはただ生育環境の差異があるだけだ。その程度の差異に振り回されてしまうのが人間、少なくとも現代の日本人だ。

 優れているとか劣っているとかいう評価から人は逃れられない。しかし絶対的な評価なんてものは、究極的には存在しない。たとえその「評価」が社会とか世間いう名の下に行われるのだとしても、全ては集団や個人が作り上げた基準でしかないし、それはいつの時代でも少しずつ変化し続けている。また、親の評価や学校での評価、会社での評価などごく狭い範囲でしか通用しない評価が、当人にとってはより残酷なものになる場合がある。それは容易に虐待やいじめ、パワハラに繋がるからだ。「評価」という名を持った主観の塊でしかないものに、人生は振り回されてしまう。

 生きている限り誰しもが、狂気を発現する可能性を内在している。ある程度保証されているように見える日本の安全とは、多分、この可能性が考慮されていない。日本社会はみんなが我慢することによって成り立っている面が多々あるから、個人の消耗は激しいはずだ。我慢が身に染み付いているゆえに、多少酷な扱いを受けても反発することが少ないのだと思う。しかし時には、一線を越えた誰かの狂気が物理的な事実として姿を現すこともあろう。だからこそ、死ぬほど頑張らないと生きていけない人を少しでも減らさないといけなくて、それには対処療法だけでなく、価値観レベルの転換が必要なんだろう。何年ぶりかにひぐらしのなく頃に鬼隠し編)を読んで、ぼんやりとそんなことを考えた。