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露街公開空地

創作やコンテンツに関する覚書......にしたい

コミュニケーション能力がない

 昔から人に向かって話をするのが苦手だった。

 元々人見知りをする性格だったこともあり、近しい友人や家族以外と会話をすることは殆どなかった。時々授業で発表しないといけなかったり他のクラスメイトと話さないといけない場面もあったが、高い確率で自分の声が相手に届いておらず、訊き返されることが多かった。そんな経緯もあり私は未だ自分の声に対してコンプレックスを抱いている。

 世間的に「コミュニケーション能力」が持て囃されるようになった頃、言うまでもなく私は危機感を抱いた。自分の小さな声では社会に認めてもらえない、と。ただ少し希望的観測ができたのは「社会で強く要求されるコミュニケーション能力とは、飲み会の席で声を張り上げてネタを披露したり同僚とワイワイ談笑するための「コミュ力」ではなく、たとえ異なる立場の相手であっても話をよく聞きその内容を理解し、自分のほうから伝えるべきことをしっかりと相手に伝える能力だ」という、お決まりの言説があったためだった。

「なんだ、別に声が大きい小さいの問題じゃなかったんだ」と私は安堵した。多少声が聞き取りづらかったり、常に友達と駄弁り続けることができなかったりしても、人の話を聞いて伝えるべきことを伝えるという当たり前のことができれば、社会では通用するのだと理解した。自分にはある程度の常識があると思っていたし、人に刃向かうことのない素直な人間だとも思っていた。

 だから自分に本当に欠けているのが「社会で強く要求される」「当たり前の」コミュニケーション能力であることには長いこと気付きもしなかった。

 人に何かを指示されても、その中身が少しでも複雑であると理解できない。その場で理解しても、少し時間が経つと忘れてしまう。それが私である。繰り返し尋ねると自分の評価が落ちてしまう気がするので訊き返すこともできず、最後の方になって認識の齟齬が発生したなんていう経験はここ数年のうちに幾度かあった。

 これに加え私は極度の話し下手である。自分の言いたいことを最後まで文章にすることができず、語尾はいつも曖昧だ。安易に「〜っていう感じで……」「〜と思いますがまあ…...」という語尾を使ってしまう。話している最中に次の言葉が出なくなってしまうこともしばしばあり、特に大勢の前では萎縮してしまう事もあって、原稿やカンニングペーパーがないとすぐに言葉に詰まってしまう。こうなってしまうと場を取り繕うのは困難を極め、長い沈黙の後に「すみません」と逃げ出してしまうのが常である。自己嫌悪はすれど、結局伝えるべきことは伝わらない。

 答えるべき内容が自分にとって都合の悪いものであると、自己保身あるいは自己の全否定という「逃げの手」を使ってしまう。「〜〜まではある程度できています」とか「全然だめです」とか。いずれにせよ、正確な内容は伝わらない。

 この歳になると、コミュニケーション能力があらゆる能力の基盤となっていることが段々分かってくる。それは同時に、あらゆる能力の基盤となるコミュニケーション能力の欠落は社会生活を送る上で致命傷になることを意味する。人から学ぶのもコミュニケーション能力、報・連・相もコミュニケーション能力。コミュニケーションが不要な仕事はないしコミュニケーションが不要な学びもない。だからこそ私は自分のことを「どうしようもない馬鹿」だと言わざるを得ないのだ。